戦争を語り継ぐ-ヒロシマ被爆体験のお話し会 –

8月3日、「豆に暮らす野の暮らし研究所」の豆野さんの主催による「戦争を語り継ぐ-ヒロシマ被爆体験のお話し会-」が田原市若戸市民館にて開催されました。

お話をしてくれたのは、6歳の時に広島で被爆した愛知県作手村在住の黒田レオンさんです。
黒田さんは昭和14年生まれで現在85歳。
会場には黒田さんのお話を聞こうと、地元を中心に多くの人が集まっていました。
 
【黒田さんのプロフィール】
昭和14年、神奈川県生まれ。20代の後半から、アメリカのシンクタンクに在職、20世紀が抱える世界的な共通課題である持続可能なエネルギーの需給の問題、環境汚染や貧困と不平等の拡大の問題、食糧需給の不均等な格差の問題、などを総括担当する副社長として、約20年在任。

日本に帰国後、株式会社エコ・ワールドを鎌倉で設立、スローでナチュラルな暮らしを提案。自分自身と家族の暮らしを実験的に試みようと、1997年4月、家族とともに住み慣れた鎌倉を離れ、知人も友人もいない愛知県の高原の村作手に移住。(三河地方の深掘り情報サイト「みかわこまち」より引用)


 
ここにお伝えする内容は拝聴した事の断片であり、全てではありませんがここにレポートします。

6歳の子どもが見ていた爆心地の惨状

今年で広島に原爆が投下されて79年を迎えました。その年の暮れまでに約14万人の人が命を落とした原爆。

当時6歳だった黒田さんは両親と妹と弟の家族5人で広島に暮らしていました。

8月6日、蝉がミンミンと鳴く鬱陶しい暑さの朝、母が台所で朝食の準備をし、黒田さんたち兄弟は居間のテーブルで椅子に座って朝食が出来るのを待っていた時でした。

ピカッと辺りが一瞬大きく光り、その後はものすごい音がして何が何だか分からない状態だったそうです。

黒田さん一家の住まいは爆心地から南に1.2kmのところにあり、すぐ隣に化学の研究者だった父が勤務する大学の壁あったこと、どこから飛んできたのか分からない畳が黒田さん兄弟の上にちょうど折り被さるなどの偶然が重なって守られ、奇跡的に命は助かり、家も全壊となりませんでした。

畳には割れたガラスの破片がたくさん刺さっていたそうです。

後から聞くと、誰もが自分の家に爆弾が落ちたのだと思ったそうです。
 
外の様子は「生きている人がいない町」でした。

翌日8月7日、黒田さんは兄のように慕っていた当時13歳の歳の近い叔父さんを探しに爆心地の方へ探しに行きました。

町には大人が数人。歩いている子どもは黒田さんただひとりだけでした。

強烈な死の匂いが立ち込めていたそうです。

「一番伝えたいのは、匂いの記憶です。凄まじい死臭は今でも忘れることが出来ない。」と黒田さん。

黒焦げになったたくさんの人。人は焼け焦げるとこんなに小さくなるのだ。大勢の死んだ人が川にぷかぷか浮かんで潮の満ち引きで寄せたり引いたり。

そんな現実の中で、だんだんと「死んでいる」ことが普通に思えてくる。

世界が「死」で覆い尽くされると、そのことに、もはや気持ちも動かなくなってくる。

死んだ人を米軍がトラックで運び、大切にされることも弔われることもなく次々に焼かれて「処理」される光景。
 

やがて平和はやってくる

「それでも月日が過ぎると平和がやってくるのです。」と黒田さん。

進駐軍がやって来て、チョコレートやタバコを車から投げると、子どもも大人も地面に這いつくばって拾っていたそうですが、黒田さんはどうしても這いつくばることは出来なかったそうです。

その頃の想いとして、米軍に対しての憎しみのような感情はなくなっていたと話します。

ある時、黒田さんは当時の『原爆傷害調査委員会(ABCC)』に呼ばれ、たくさんのキャンディーが積まれたテーブルのある部屋に案内され、服を全部脱ぐように指示されて検査を受けることに。

その時のドクターが黒田さんに言ったことは、黒田さんが受けた被爆線量は即死レベルで、なぜこのように元気なのかは奇跡的だ、と伝えられたそうです。

黒田さんのその後の人生

黒田さんはその後、大きな病気もなく85歳の今までお元気で過ごしています。

学生運動に熱中し、長身でがっしりとした体格を生かしてスポーツも存分に楽しみました。

20代後半からはアメリカのシンクタンクに在職し、環境、エネルギー、貧困、食糧需給の不平等などの問題を統括担当する副社長として約20年在任しました。

帰国後、自立・自律・自給の「百姓」の暮らしが21世紀の日本人の暮らしを展望する社会モデルになりうると考え、1997年に愛知県作手村に家族と移住しました。

シンクタンク時代の経験を生かした様々な地域事業のプロデュース業を経て、現在は「サローネ・デルモンテ」という健康で、愉しい、おいしい、美しいライフ・スタイルを提案するマウンテンバイクのプロショップのオーナーでもあります。

語り継ぐ使命

黒田さんがこのように被爆体験を語る活動をするようになったのは、ここ数年のことなのだそう。

それまでは、話すことで当時の壮絶な記憶がよみがえり、辛い気持ちになることから、あえて自ら語ることはあまりなかったが、気付けば自身より年上の原爆の語り部がいなくなっていく現状の中、「これから誰が伝えていくのか」という強い危機感を感じるようになったそうです。

「おそらく私は、あの日爆心地を歩いていた、現在この世に生きる唯一の人です。」と黒田さん。

相手の立場になって考え行動すること

黒田さんの被爆体験以後の人生のお話で特に印象に残ったのは、黒田さんがアメリカのシンクタンクの仕事でトルコに赴き、犯罪の多い地区の治安の改善と街の清浄化を推進する地域事業を担当した時のお話でした。

「どうしたら犯罪が少なくなるか」という課題を考える時、「貧困」が犯罪を生むという背景に向き合い、住環境を綺麗に整えたことでそれまでの1/10に犯罪の数が減ったとのこと。

それは、黒田さんがおこなった世界各地での課題解決のための政策のひとつの例ですが、国や文化は違えど、共通して言えることは『相手の立場になって考え、対話し、行動すること』で問題の本質が見えてくる、ということでした。

身近なあらゆる争いや侵害や暴力も相手の立場になって考え、違う価値観を尊重し、理解し合うことで、尊い命が傷つくことがなくなる。

一見単純なことのように思えますが、子どもも大人もこのことが最も大切であり、戦争への道を防ぐヒントなのでは、と黒田さんのお話を聞きながらイメージしました。

罪のない多くの命が一瞬で奪われる有事の戦争や核兵器の保有も、このような平時日常の思いやりの積み重ねで無くすことが出来るよう願うばかりです。

 

「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」

広島原爆記念碑碑文に刻まれた言葉です。

「人間が軍隊に入って戦争をする。こんなことが2度とあっていいわけがない。」と黒田さんは力強く言います。

人間とは? 社会とは? 人間の尊厳とは?

私たちは先人や過去から学ぶしかなく、聞くこと、知ること、対話することで学び、未来と子どもたちにこの事実を伝えていくことの大切さを、黒田さんの想いに触れて感じさせてもらえました。

 

text / Masami Araki(Myoujou Library)
photo / Koshi Asano(Office Presence)

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